兼六園のすぐ近くに位置する玉泉園。その歴史は400年ほど前にさかのぼります。
作庭したのは加賀藩の上級武士だった脇田家。江戸時代初期に初代直賢が造園を始め、四代九兵衛まで約100年を費やして完成させました。
加賀藩歴代藩主が築いた兼六園の完成より約120年古い、江戸中期の作庭です。
玉泉園の名は加賀藩2代藩主前田利長の正室玉泉院に由来し、初代直賢は玉泉院の配慮により脇田家に婿入りした縁があります。
玉泉園が兼六園の樹木を借景にし、池泉の水源を兼六園の徽軫灯籠付近の曲水から引いていることも加賀藩と脇田家の親交の深さを物語っています。
明治時代初期に脇田家が金沢を離れた後は西田家が庭園を受け継ぎました。
約2370平米の園には作庭以前から生い茂っていた巨木が見られ、朝鮮五葉松やノウゼンカズラの老樹が名園の変遷を見守っているようです。
昭和35年(1960)には県の名勝に指定されました。
上下2段式の池泉回遊式庭園で、起伏に富んだ景観美が特徴の玉泉園は、ある山水図がもとになったといわれています。
描いたのは中国南宋時代の画僧芬玉澗。元禄7年(1694)に刊行された『古今茶道全書』第5巻の巻末に3枚の山水図が描かれており、その1枚である「玉澗樣山水三段瀧圖」が玉泉園の東滝を中心とした崖地部分と酷似していることがわかっています。同書の刊行時期は脇田家3代直長が玉泉園を築庭していた時期と重なります。
画僧玉澗に由来する「玉澗様式」は作庭における幻の様式といわれ、確認されているのは全国に6例のみ。日本海側ではここ玉泉園だけです。一幅の絵のような名園はいにしえの僧が描いた理想郷へと誘ってくれます。
築山を2つ設けてある
築山の間に滝を設けてある
滝の上部に石橋(通天橋)を組んである
石橋の上部は洞窟式になっている
玉泉園はこの4つの特徴が全て備わっています。
裏千家の祖千仙叟宗室は加賀藩5代藩主前田綱紀に招かれて金沢城下に屋敷を構え、藩の茶道茶具奉行を務めました。
脇田家2代直能も千仙叟宗室から茶道を学び、交流があったといわれています。
玉泉園の最上段にある灑雪亭露地は千仙叟宗室の指導により造られ、池を中心とする庭園と茶席「灑雪亭」からなり、亭前の茶庭には雲龍の陽刻をなした蹲踞が配されています。
1畳に台目2畳の灑雪亭は利休の詫びを尊ぶ簡素な席で、金沢市内に現存する茶室としては最古といわれています。
江戸時代初期から中期にかけて玉泉園を作庭した脇田家。
初代直賢は現在のソウルである朝鮮漢城に生まれ、幼名をキム・ヨーチョルといいました。
豊臣秀吉が行った征韓の役で父のキム・シションが亡くなり、孤児となった如鉄を武将宇喜多秀家が日本へ連れて帰りました。
関ケ原の戦いで敗れた秀家は八丈島へ流刑となりますが、如鉄は豪姫(加賀藩前田利家の4女)と金沢城へ入り、加賀藩2代藩主前田利長の正室 お永の方(隠居後の玉泉院)に育てられました。成長した如鉄は利長の近侍となって帰化。加賀藩士脇田重俊の娘婿となり、初代直賢を名乗ります。
2代直能は木下順庵から学問を、千仙叟宗室から茶道を学び、3代直長は茶道の名手で夕庵と号しました。
玉泉園の造園は初代直賢から始まり、4代九兵衛で完成しました。
その後、脇田家は5代直康、6代直温と続き、7代直与の時に明治維新を迎えます。
しかし、明治11年(1878)に脇田家はこの地を離れ、明治38年(1905)以降は、西田家が屋敷や庭園を受け継ぎました。